仁川・韓国 ~ 天津・中国 2003

奇跡の再会-黄海航路
 2003年11月21日金曜日。この日は忘れられない、と言うよりも奇跡的な1日であった。
 ソウルに長逗留する事19日、ようやく次の目的地の中国・天津へ。福岡から釜山へ船で渡ったのと同様、今回も航路を選んだ。この当時、韓国の仁川港(仁川と聞くと空港のイメージ!だけど、港もあるという事でここは国際的な町なのですね。)から中国へは4航路出ていた。それぞれ、青島、煙台、大連、天津、だったと思う。

 今回は天津港行きを選んだ-何て事はない、釜山で会って慶州も一緒に旅した大学生の彼(その時のBlogはこちら)が言っていたルートで、「中国への4航路の内で1番北京に近いのは天津なので、僕は韓国の次は天津、北京に行こうと思っています。」と。それを聞いた時、単に、「なるほど、そーか。」ぐらいにしか思っていなかったけど、いざ自分が中国行きのルートを決める時、なるほど、私も北京には行きたいものだと思い、このルートにした。

 天津便は火曜と金曜の週2便があり、この日から遡ること3日前の火曜の11月18日、実は仁川港まで行ったのだが船に乗り遅れてしまい、泣く泣くソウルに戻ったのであった。

 しかし、旅と言うものは得てしてこんなものかもしれない。その時その時の選択やちょっとした出来事が今後の自分の出会いや運命を変えていくものである。

 さて、話を11月21日(金)に戻そう。今回は遅れる事がないよう、早めにソウルの宿を発った。とは言え前回失敗した火曜は昼便だったが、今回の金曜のは夜便だったので時間的に余裕があった。

 ターミナルに到着して、黒いコートを着た身長180cm以上、巨大なバックパックを2つ持った外国人の男が座っているのが目に留まった。どういう訳か私はこの時、彼をドイツあたりから来た白人と思い、「ヨーロッパの人でも船で中国に行くのか。」ぐらいに思い、私も彼の近くのベンチに腰を下ろした。
 チケットはまだ販売開始前で取り敢えず安心した。

 日本から持って来ていた本を読みながらチケットの販売を待っていた。先ほどのヨーロッパ人も本を読みながら、こちらをチラチラとたまに見る。私も「何だろう?」と思いながら見返すと、どうやら日本人離れした顔立ちであるが、よく見ると日本人、もしくはアジア人のようであった。-しかも、よくよく見ると私の地元・長崎の高校時代共に過ごした同級生の”繁樹”という人物によく似ているではないか。。

 繁樹とは高校2年生と3年生の頃、同じクラスであった。とても頭がよく高校時代から1人で列車に乗って日本中旅し、大学に進学してからは、世界中を旅するようになった。彼は旅先のタイやイランなどから、その国々で彼の身に起こった話を書いてよく私に絵葉書を送ってくれた。
 私が大学卒業後、東京に出てきて働くようになった頃、彼はまだ東京・高田の馬場にある大学に通っており、彼のおんぼろアパートで一緒にお酒を飲んだりしながら、世界中の面白い話を私に聞かせてくれていた。
 

 -私が2003年から当てもないアジアの旅に出た理由を人に聞かれると大体において、「沢木耕太郎氏の『深夜特急』の影響で。」と答えたりしたものだが、多分に繁樹からの影響もあったと思う。


 繁樹はロシアへの留学経験もあり、ロシア語が堪能であった。「大学を無事卒業したら、中央アジアのアゼルバイジャンという国で日本語教師の職があるので、そこに行くかもしれない。」とよく言っていたのだが、ある日突然我々の前から姿を消し音信不通になっていた。

 そして繁樹と音信不通になって3年後の仁川港、そこに繁樹が?アゼルバイジャンと全く関係ないし。。-しかし、見れば見るほど彼に見えてきた。さりげなく彼の後ろを通って、読んでいた本を覗き見ると、日本語-というか、よく見えなかったが縦書きの本であった。私が知る限り、縦書きの本と言うのは日本だけの筈である。
 これから一緒の船に乗るのは自明の事であるし、確認してもし違っても日本人であるなら、これからの船旅、船内で色々話もできるであろうと思い、思い切って「あの、、日本の方ですか?」と話しかけてみた。
 -返事は確か、「うん、うん」とか「ええ。」とかそんなものであったと思うが、声を聞いて、直ぐに繁樹だと分かった。向こうも直ぐにというか、ずっと私だと思っていたけど、同じく何故、仁川の港に?と思っていたらしい。

 まさか、世界広しと言えど、こんな普段あまり人が利用しないような仁川の港で高校時代の同級生と再会するなんて、旅の不思議である。

 因みに繁樹はその時、日本に一時的に帰国しており、日本から韓国、中国と渡り、中国を列車で横断して、中央アジアのアゼルバイジャンへ陸路で戻る途中であった。

 船は海が時化ているとの理由で遅れに遅れ、3時間遅れて夜の10時にやっと出港した。

 船の中は既に中国であった。-思うに韓国は民族的にも我々と同じモンゴロイドであるし、国としての考え方や人々のファッションもそれ程違いがないように思う。しかし、中国はと言うとこの頃は薄っすらとではあるが、まだまだ共産圏の匂いがし、民族的にも見た目は我々と似ているが微妙に異なる漢民族である。そんな風にどこか似ているけど、何かが決定的に違うという、何だか不思議な気持ちを-この先2ヶ月も旅する事になった中国は-私に抱かせてくれた。

 翌朝、甲板に出てみた。目の前に広がるのは黄海である。黄河から流れ出た水の為であるのか、どことなく黄色い気がする。-なるほど、だから黄海なのかと今更ながらに気付く。


 結局船は遅れに遅れて真夜中の12時に天津港に到着した。結局26時間の船旅であった。到着した頃には辺りは真っ暗、両替所どころか、お店は1軒もやっておらず、暗闇の中にぽつりぽつりと出迎えの人や客引きのタクシードライバーが見える。これは困った。1人だったら完全にこれはアウトというか、詰んでいる。その時中国のお金もなく、お店も開いていない深夜の港である。

 仁川港では海が時化ている為、船が無事出港できるか未定との事でなかなかチケットを売ってくれなかった。販売員は日本語を話せないのでこの時、何故チケットを売ってくれないのか理由がさっぱり分からなかった。そんな時に助けてくれたのが、天津師範大学に留学中で、これから天津に戻るという我々と同世代のAくん-日本人であった。天津港でもまた彼が助けてくれた。「もう夜中の12時を回っているし、ホテルもどこもないだろうから」と、彼が宿泊している師範大学の寮の空き部屋がないか、寮の人に聞いてくれると言うのだ。しかも、人民元がないようであれば、取り敢えず立て替えておいてくれるとまで申し出てくれた。
 何もかもに感謝である。

 早速我々3人でタクシーに乗り込み、天津の夜の街を走った。-始めて見る中国の街は嘗て訪れたアメリカのようにとても巨大な道や建物で構成され、そして何処を見回しても漢字・漢字・漢字の渦である。時折目にする読めない簡体字の混ざった文章や、その国が持つどこか独特の雰囲気に呑み込まれ、私は一気にこの国の虜になった。まさにハンマーでがつん!と頭を殴られたような衝撃であった。

 翌朝、町を軽く散歩し、路地裏で販売している包子を購入した。包子とは日本で言うところの肉まんや野菜まんのようなものである。因みに中身の具がないものを饅頭(マントウ)という。

 この包子、2つ購入して何とたったの1元(=15円)であった。驚くべき安さである。
 この日は銀行に行って人民元に両替したり、駅まで行って、北京行きのチケットを購入し、駅に荷物を預けて駅周辺をぶらぶらして過ごした。
 中国の駅にはどこも荷物預かり所というものがあり、今後の中国の旅でもとても重宝した。

 天津から北京までは3時間半の旅、チケットは2等シートで11元(=165円)であった。何だかめちゃくちゃ安い・・・。

 列車はとてもとても混んでいた。信じられないくらいに。2等シートは3人づつの向かい合わせのシートになっており、通路までびっしりと乗客が立っていた。乗車率120%か、それ以上あったように思う。そんな中を縫うように大声を張上げながらやって来るアイスクリーム売りや、光るベーゴマみたいなものを売りに入れ替わり立ち代り人がやって来る。もう車内はカオスそのものである。
 しかし、無事、席があった我々は割りと平穏無事で、向かいに座った弁護士だと言うおじさんが、「北京で何か困ったらここに連絡するように。」と名刺をくれたり、隣に座っている田舎風のお嬢さんと談笑したりしている。
 相席になると分け隔てなく誰ともでも仲良くしてくれる中国人の何と気さくな事か。これも今回中国を旅して発見した事の1つである。
 
 中国を知るには列車で旅するのが1番よいと思う-これは私が中国を旅した実感である。

 列車は無事、北京に到着-これから1週間、繁樹と北京での旅が始まった。

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