サイゴン、戦争証跡博物館にて - サイゴン・ベトナム 2004

  - サイゴン

 あぁサイゴン、サイゴンである。
 
 ベトナム戦争後、この町はホーチミン・シティなんて、ホーおじさんの名前の町になってしまったけれど、私の中ではやはりサイゴン - この響きが好きである。なので現在この町の正式名称はホーチミン・シティではあるけれど、ここではサイゴンと書かさせて頂こう。
 
 南ベトナム、ムイネーの次にそんなサイゴンにやって来た。甘美な響きとは裏腹にこの頃のサイゴンはまだベトナム戦争の影響をどこか引きずってかうら寂しくそして煤けた感じのする町であった。

 思えばこの2004年当時、年老いた人々はまだ自分達の町の名前をサイゴンと呼び、そしてそんな町中はまだ”サイゴン”と言う言葉の響きがどこか似合う、そんな様相を呈していたように思う。
 
 そして勿論、サイゴンと言えば、日本の作家・開高健やカンボジアで凶弾に倒れた写真家・沢田教一なんかを思い浮かべるのだが、そんなサイゴンも2021年の今やすっかりそんな呼び名はどこか懐かしい響きのようにさえ思えホーチミン・シティという名前が板に付いた感もするし、昭和とサイゴンは遠くになりにけり、そんな事を思ってしまう。

 サイゴンではその当時、民泊なるものも流行っていると聞いてもいたが、私は普通の宿に宿泊 - 朝食付きで僅か3ドルの3人ドミ(共同部屋)で、私の他にはフランス人のサーファーのおじさん、そしてシンガポールから来たという60歳の男性と一緒だった。部屋には広いバルコニー、そしてハンモックが2つ設置されており、ここでよくこのシンガポール人とハンモックに揺られ色々と話したものだ。

 そしてベトナムでは確かCOMと呼ばれていたぶっ掛け飯(店頭に並べてある食材から好きな具材を幾つか選びそれをご飯の上に乗せて自分なりのご飯をアレンジするもの)をよく食べていた。大体の値段が8,000ドンで1ドルの半値位であるのだが、値段がいつも定まっていないのは困った。同じようなものを食べても日によって9,000ドンだったり、はたまた最初に交渉して9,000ドンで決まったかと思いきや、値段を払う際に最初に交渉した人と別の人に払うとすると「はい、8,000ドンね~」と言われたり(この場合は安くなって良かったのだが)、、ベトナムと言えばご飯は美味しかったけど、このお金というかモノの値段がかなりアバウトだったとそんな事を思い出すが、2021年の今でもこんな感じなのであろうか。

 さて、そんなベトナムも途中寄り道はしたけれども、北から南までトータル1ヶ月程旅をした事になり、ここサイゴンが最後の都市となった。この後はカンボジアへ抜けるだけである。

 以前のBlogでも少しばかり触れたと思うが、ここサイゴンでは是非とも行きたい場所があった。それは戦争証跡博物館 - つまりはベトナム戦争の事を展示した博物館である。ここはもの凄くおススメなので、折角サイゴンまで行く機会がある方は是非、訪れてみてください。(戦争の悲惨さを伝えている場所でもあり、見るものにもそれなりの覚悟を強いている場所ではありますが。)

 建物の野外スペースにはアメリカ軍の戦車やミサイルが展示されており、展示スペースにはベトナム戦争時の映像や写真が展示されており、その中でも圧巻だったのはその当時、ここインドシナ半島で戦争を記録し続けたワーフォトグラファー達の写真であった。正に一堂に会しているという感で、あれだけの数はなかなか日本では見る事はできないと思う。

 勿論日本の写真家 - 前述した沢田教一氏の「安全への逃避」、そしてカンボジアで命を落とした若き写真家・一ノ瀬泰造の写真や被弾した彼のNikon F2なんかも展示されていた。

 その他にもアメリカ軍が散布した枯れ葉剤の影響で奇形児になってしまった子供達の写真、そして戦争の影響で腕や足をなくした人たちの写真の他にもベトナムの子供達が描いた平和を祈る絵などが沢山展示してあった。

 これだけの過去のあやまちがあり、戦争の惨さを知ることが出来る世の中なのに、今だに世界から戦争はなくならない - 日本でももっともっとここにあったような写真などを紹介し、平和を訴えていくべきだと思う。

 出口のところには1冊の感想ノートが置いてありパラパラっとページをめくり目を通すとあるところで目が止まった。そこにはページの上下に思い切り余白を持たせ、中央に一言 - 「shame on you,America」とだけ記載されていた - 。

 
 - 時を経て、2018年に沢田教一さんの回顧展とも言うべき展示が横浜で開催された。会場の出口近くに近年のサイゴンの様子と数年振りにそこを訪れた教一さんの奥さん・沢田サタさんの映像が流されていた。すっかり近代化され煌びやかな町並はやはりもうサイゴンと呼ぶよりもホーチミン・シティと呼ぶのに相応しいような光景だった。そんな光景を目の当たりにしたサタさんが最後に、「こんな平和なサイゴンを教一さんにも見せてあげたかった」というような事をおっしゃられていた。

 戦争証跡博物館のノートに残された言葉、そしてサタさんの言葉、どちらもある意味真実だと思う。1つの事象に対し色々な側面から物事を判断したり議論したりするのも大切でもあるし、そういった意味で是非いつかみなさんにもこの博物館には足を運んで貰えたらなぁとも思う。そしてやはり、私はやはりこのサタさんの最後の言葉に寄り添いたくもなるし、この時何だか救われた気持ちにもなった。

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